第二次大戦中である1945年の6月23日に沖縄戦を指揮していた第32軍の司令部が自決し、組織的な攻撃の集結の日として記念されたものです
沖縄戦についてすこし書いてみます
沖縄戦の起こる前の作戦として八原大佐は、三個師団半の兵力と、強力な砲兵によって、米軍が上陸してきた二日目の夜に突撃して、水際で米軍を追い落とす計画を立てました
その作戦の通りに訓練は進められ、上陸米軍を追い落とす確信が深まっていたときの事です
台北会議で、沖縄から一個師団を引き抜くことが決まりました
沖縄戦を戦う兵力として三分の一弱の削減となってしまいます
突然の兵力削減により、作戦計画を立て直さなくてはなりませんでした
沖縄本島南部に軍の主力を配備し、本島の中部に上陸して南下してくると予想される米軍を、首里北方陣地線で防ぎ、持久戦に持ち込み、敵に出血を強要するという作戦です
決戦して水際で追い落とすという当初の作戦から、兵力が削られ、無理となったため、戦略的に持久戦へと変更されました
この作戦には賛否両論あるでしょう
持久戦に持ち込んだため、沖縄の民間人の死傷者が増えたことは事実でしょう
日本軍の特徴として、決戦を好み、負けると判断された場合、敵に無謀な突撃をしかけて全滅させるパターンが多く、負けを覚悟で、持久して、敵に損害を増やすという作戦は、従来潔しとされず、日本では好まれませんでした
ですが、沖縄戦や硫黄島の戦いの結果、米軍に多大な損害が出て、これによってアメリカで対日戦の早期の終結を望む意見が増えて、降伏条件を緩和させる元となりました
もし米軍がそのあと本土上陸作戦を実行したら、沖縄を遥かに越える犠牲者を出すことに恐れを抱いたのです
沖縄戦が決戦突撃を繰り返して、日本軍が短期で全滅していたなら、本土でも沖縄と同じような地上戦が展開されていたかもしれません
そして、天皇家の存続というのも無かったでしょう
沖縄戦当初、米軍が上陸一日目に北・中飛行場を占領されたことに、中央や台湾の師団から、腰抜けと罵倒船ばかりの電報が矢継ぎ早におくられてきたといいます
持久作戦を計画したことからすれば想定内のことであったわけですが、日本軍全体に持久作戦を好まず、決戦をよしとする風潮があったことが伺えます
沖縄の司令部でも何度も決戦突撃が計画され、実行に移されたこともありますが、無駄に兵士を死傷させ、兵站を消耗したに過ぎませんでした
持久作戦を徹底できたなら、沖縄戦では日本軍はもっと有利に戦いを行えていたでしょう
余談ですが、運玉森から聞いた話を物語として書いたことがありますが、この森では戦時中に日米両軍が対峙したときに、夜間であったそうですが、お互いに言葉による口撃?のし合いがあったと言います
声が届くわけですから、銃撃すればあたる位置に両軍があったのでしょうが、なぜか悪口の言い合いをしたのですね
私の子供の頃は、銃弾の不発弾を拾ってきて、薬莢のなかにある火薬を取り出し、花火のように火をつけて遊んでいました
友達は、森の洞窟で白骨を発見したといいます
沖縄では戦時中たくさんの方が亡くなられ、いまもなお未浄化な状態にある方もいらっしゃることでしょう
いまだにアメリカと戦っている意識のままの状態であるのかもしれません
そうした状況が、基地反対運動などの活動の一部に働いているように感じられます
未浄化なままに置かれている原因のひとつには、亡くなられた方への正当な評価がなされていないことも一因にあるように思われます
はやくすべての方が浄化され、光の世界に帰られるとよいですね
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