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カタリ派 【キリスト教グノーシス主義】

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カタリ派(Cathares)は10世紀半ばに現れ、フランス南部とイタリア北部で活発となったキリスト教色を帯びた民衆運動。


カタリ派という名前は「清浄なもの」を意味するギリシア語の「カタロス」に由来している。

カタリ派は消滅したためカタリ派がどのような思想をもっていたのかを正確に知ることは難しいが、反駁者たちの書物からわずかに類推することができる

カトリック教会は、カタリ派が二元論的世界観に代表されるグノーシス主義的色彩が濃厚な特異な教義と組織を有していたため、異端認定したと主張している。

カタリ派思想の根本は、この世は悪であるという思想にある。

世界を悪と考える思考法はグノーシス主義などに類似するものであり、歴史の中で繰り返しあらわれている。

本来、単なる反聖職者運動だったカタリ派はボゴミル派からこの思想を受容したと考えられている。

カタリ派ではこの世界は「悪なる存在」(グノーシス主義ではデミウルゴス)によって創造されたと考えていた。カタリ派が古代のグノーシス主義と違っていたのはデミウルゴスをサタンと考えたことにあった。また、カタリ派は人間は転生するという信仰を持っていたと伝えられる。


(カタリ派でも、この世界は悪なる存在が創造したと考えています

以前にも述べていますように、旧約の創造神とされる神(デミウルゴス=エンリル)が残忍な性格を持つため、それを排除し、イエス様を指導されたまことの神、天の父への信仰へと切り返そうとする運動が何度もおこったのです

グノーシスの運動もそうした流れの一つですし、実は、西洋の近代化を進めたヘルメス主義の復興であるルネサンスもそうした動きだったのです)


カタリ派はグノーシス主義と同じように、物質世界に捉えられた魂はこの世を逃れることで非物質世界である天国に到達できると考えた。

そしてこの世から逃れるための唯一の方法が、汚れた世俗と関係を断ち切って禁欲生活を送ることであった。

このような完全な禁欲生活を送る信徒が「完徳者」(ペルフェクティ(Perfecti))とよばれていた。

完徳者には世の人々の罪を取り除き、物質世界とのつながりを断ち切る力があると信じられ、死後はすみやかに天国に行くと考えられていた。

完徳者たちが送る完全な禁欲生活は、当時の教会の聖職者たちの堕落した生活とは対照的なものであった。


(正統派=カトリック教会にとってカタリ派を許せなかった理由として、彼らは一人一人の信仰に重きを置き、教会とその位階制の必要を否定したことでしょう

カトリックの収入源である煉獄(purgatory)という脅しや免罪符(indulgence)という救いの概念も否定していた


ヘルメス主義の記事でも書きましたように、教会からすれば、救いは教会を経由してもたらされるとすれば、教会は大きな権力を持てるわけです


それをグノーシスのように、教会を解さずに、個人が直接神様と繋がってしまったら、腐敗した彼らの権力は落ちてしまうことを恐れたのでしょう



一般の信徒たちも死の直前に、「慰めの式」(救慰礼、コンソラメントゥム(Consolamentum))という儀式を受けることができた。

この式を受けたものは以後食事を口にしなかった。

「耐忍礼」(エンドゥラ、endura)と呼ばれるそれは物質の汚れを受けないための潔斎であり、死に至ること自体を目的としているわけではなかった。

カタリ派はこれ以上罪人であるこの世の人間を生み出さないよう結婚を認めず、生殖を目的とする性行為を認めなかった。

しかし、生殖に結びつかない性行為は奨励されたため、この点においてカタリ派が激しく非難されることになった。

カタリ派が保持していたさまざまな神学思想は当時の一般的なキリスト教徒たちにとって受け入れがたいものであった。

まずイエス・キリストが人性を持っていたことを完全に否定し、幽霊のごときでものであったとしていた。

カタリ派にとってみれば、神聖な神が汚れた肉体に入るわけがないのである。

このような説はドケティズム(仮現説)といわれ、カタリ派のオリジナルではなく古代から存在していた。また、先に述べたように「慰めの式」を唯一の秘跡として、一切の秘跡を否定した。

さらに肉食を禁止し、菜食のみを認めた。

肉は生殖の結果であるとされたからであり、生殖の結果である他の食品(卵、チーズ、バター)の摂取も禁じられていた。

カタリ派の教義にはボゴミル派のそれと非常によく似ている部分がある。

カタリ派運動のそもそもの起源は、当時のカトリック教会の聖職者の汚職や堕落に反対する民衆運動であったと思われる。

カタリ派には「完徳者」(perfecti)と「信徒」(credentes)という二つのグループが存在していた。数でいえば、完徳者はほんの少数であり、大部分は信徒であった。

カタリ派対策として1100年代にはさかんにカタリ派地域に司祭や説教者が送り込まれ、説得によってカトリック教会へ復帰させる努力が行われた。

しかし、カタリ派は当時フランスの王権から独立していたトゥールーズ伯など諸侯の庇護を受け、政治問題化しはじめていたため、効果があがらなかった。

カトリック教会の聖職者の堕落を見慣れてしまった民衆は、完全な禁欲生活を送るカタリ派の完徳者の姿に強い感銘を受け、心ひかれた。

1147年、教皇エウゲニウス3世はカタリ派の増えていた地域へ説教師たちを派遣してカタリ派信徒を穏健にカトリック教会へ復帰させようとしたが失敗に終わった。

カタリ派の禁止が正式に決定された当初は教皇が南フランスへ特使を派遣してカタリ派信徒たちにカトリック教会への復帰を呼びかけるという方法がとられていたが、うまくいかなかった。

ここにおいて教皇庁はフランス王フィリップ2世と協議。南フランスを自らの支配下におさめたいと願ったフランス王の思惑と、カタリ派の拡大に悩む教皇庁の思惑が一致して、1209年、カタリ派とカタリ派を保護する諸侯を撃破するための十字軍が編成された。

これが「アルビジョア十字軍」である。

十字軍は南フランスで抵抗する領主たちを撃破し、一部でカタリ派信徒を殺害した。

最終的に1229年にパリで和平協定が結ばれ、トゥールーズ伯が王への服従とカトリック信仰への復帰を表明するという形でフランス南部がようやくフランス王の版図に組み込まれた。

この十字軍は宗教的な理由によるものというより、フランス王と北部の諸侯たちが、王権に服従していなかった南部の諸侯たちを屈服させるために行った軍事行動であった。

1229年、カタリ派への対抗策として異端審問制度が実施された。

1244年、カタリ派の最後の砦であったモンセギュールが陥落し、立て篭っていた多くのカタリ派信者が改宗を拒んで火刑に処せられた。

その後も捕らえられたカタリ派指導者たちが異端審問によって処刑を宣告された上、世俗領主に引き渡されて処刑されたことで徐々に南フランスにおけるカタリ派の影響力は低下していった。

最後の「完徳者」ギョーム・ベリパストが捕らえられたのは1321年であった。

1330年を過ぎると異端審問所の資料からカタリ派の名前は消えていった。信徒たちは山中や森に逃れ、各地へ離散していった。

カタリ派や(同様に異端とされた)ワルドー派はもともとはキリスト教を改革しようという民衆運動に端を発したものでフランシスコ会などの托鉢修道会と同じルーツにもとづいたものであった。

カタリ派信徒の中には托鉢修道会に合流したものもあったという。


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